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「天草四郎を生け捕りに」の松平信綱書状


 天草・島原の乱時の寛永15年(1638)、原城総攻撃直前に幕藩連合軍総司令官、老中松平信綱の直筆による、熊本藩主細川忠利に宛てた「天草四郎を生け捕りにしたい」という内容の書状である。
 この一揆に関する幕閣の動きを示す確実な原史料をあまりみることはない。この26日老中松平信綱の直筆書状を再検討すると、当初の総攻撃の予定であった23日の段階では、信綱に四郎を生け捕りにする考えは含まれていない。前日の25日に「おち申し候女の申す分」をふまえた忠利の考えを、信綱が急きょ採用した結果「四郎をいけどりに」となったのである。 28日の総攻撃の直前にもかかわらず、このような重大な作戦変更や、この段階でも四郎の実態を具体的につかめていないことは、極めて注目に値する。
 結果的に、数万人が入り乱れる原城のなかで「四郎をいけどりに」は、現実味がある指示ではなかった。ただこのような中でも、信綱が忠利の情報をふまえ、それを全軍に指示しようとしたことは重要である。また、情報をもたらした忠利にとっては、家臣の陣佐左衛門の討ち取った首が四郎であると認定されたことは、せめてもの面目躍如であった。
 この原文書は、当時の臨場感と緊張感を伝えるものであることは、多くの人が認めるものであろう。

(読み下し)
 以上
江戸・大坂への御状後刻、次飛脚遣わし申すべく候、仰せの如く天気能(よく)一段の儀に御座候、将亦(はたまた)、昨日おち(落ち)申し候女の申す分仰せ下されかんかえ(考え)、四郎をいけとりに(生け捕りに)中間にて仕(つかまつ)り候様に、申し遣わし度事(たきこと)に候、猶(なお)面上其の意(貴意)を得べく候
                         松平伊豆守(信綱)
  二月廿六日                     (花押)
細越中(細川忠利)様
   貴報