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  端城とは 


熊本城の端城位置図
 「端城(はじろ)」とは、本城(政治・軍事・経済の中心となる城)を守るために配置され、防御及び地域における支配拠点の役割をもつ城を指す。広範囲の領土を支配する近世領主にとって、本城以外にも各地域の拠点となる城が必要であった。
 近世初頭、「端城」という語は使われていた。例えば、細川家史料「部分御旧記 城郭部」は、「八代之儀ははしろの儀に候らへば、普請などつかまつる事いらざるの由、上様御内意の由にて」とある。これは、八代城普請について、徳川家光が幕府年寄稲葉正勝へ非公式に述べたものの控えである。つまり、江戸時代には「端城」という語が一般に使用されていたのである。
 天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州仕置後、天草郡・球磨郡を除く肥後国は、佐々成政が領有することになる。しかし、成政は翌年起きた「国衆一揆」の責任を問われ切腹を命じられる。天正16年(1588)、佐々成政の旧領地は加藤清正・小西行長が分割統治することになる。加藤清正は熊本城を本城として、南関・阿蘇・佐敷・水俣を端城とした。小西行長は宇土城を本城とし、矢部・八代を端城とした。
 関ヶ原の戦い後、加藤清正は戦功により旧小西領を加えて、天草・球磨郡を除く肥後国を統治することになる。
 慶長の「肥後国絵図」によると、当時の加藤領には、関ノ城(鷹ノ原城)・阿蘇城・矢部城・宇土城・八代城・佐敷城・水俣城の七城が確認できる。肥後と筑後の国境に関ノ城、豊後国に備えて阿蘇城、日向国に備えて矢部城、宇土半島の丘陵部に宇土城、相良領との隣接地に八代城・佐敷城、薩摩との国境に水俣城が配置されている。  上記の加藤清正の端城には、次の挙げる性格が顕著に見られる。
   1.堅固な地に築かれている事(軍事)
   2.交通の要衝に築かれている事(経済)
   3.在地支配の拠点を有する(行政)
 このように、加藤清正の端城は軍事面における要所、もしくは政治・経済面において重要な地に築かれている。そして、端城が置かれている地は、元和の一国一城令後、八代城を除き、城が破却されても、江戸時代を通じ在町として地域の経済・文化の中心で、街道筋の宿場町などとして発展を続けた。


※年代についてはおおよそのものとなっております。